連載#23 「奇跡の山 シナイ山へ登る」

奇跡の山

「奇跡の山」ときけば、SF映画かゲームか、昔話に出てくる山を連想するだろうか。
わたしがはじめて「奇跡の山」伝説をきいたのは子どものころで、「サンタさんのようなヒゲおじさんが山へ登ると、空から光の矢が勢いよく飛んできて、大岩に光の文字を刻みつけた」というストーリーだった。

子どもは夢みがちだから、「ホント? そんな山があるなら行ってみた〜い」と思った瞬間、伝説をまるごと信じてしまった。

ずっと後、大人になってから、「ヒゲおじさん」は聖書に出てくる「モーセ(モーゼとも)」で、岩に刻まれた文字は「十戒」という神の言葉であり、登った山は「シナイ山」であると知った。しかもエジプトに実在する山だという。
とつぜん、子ども時代の記憶がよみがえった。やっぱりホントだった。以来、わたしにとって「シナイ山」は特別な山になった。

実感したことは信じられる

パンフレットを見たり人に聞いたりしているだけではダメだ。じっさいに自分の目で見、手で触れ、自分の足で登ってみよう。そうしたら納得できる。信じられる。力がつく。
だがあまりに遠い。山はエジプトにあり、エジプトはアフリカ大陸にある。地球の裏側よりもっと遠い気がする。それに山へ登る体力も必要だ。ムキムキになるまで筋トレをしなくては。忙しさにまぎれていつしか忘れてしまった。

チャンス!

わたしの「粘土遊び」研究に区切りがつき、自由な時間がとれるようになった時、またふとシナイ山を思い出した。行ける! 実行するチャンスだ。
はじめて「奇跡の山」伝説を知り、行ってみた~いと叫んだ時から40年経っていた。
今こそ少女のころのわたしに答えを与えてあげたい。
あまりにも長く時間がたってしまったため、本当に行けるかときどき不安におそわれたが、そのたび「ダイジョウブ。行ける」と自分を励ました。
その年の冬、エジプトへ。シナイ半島へ。ついにシナイ山へ登る日がきた。

ラクダに助けられて

下記の図は、その時に描いたシナイ山である。標高2285メートル。直登すれば階段で3800段。一般には坂道を登る。登山に慣れていないわたしは、迷わずラクな坂道を選んだ。
いよいよ出発。夜中に登山スタートするのであたりは真っ暗だ。けんめいに登ったが、しばらくたって「その調子じゃ日の出前に山頂に着きませんよう」とガイドさんの声がとんでくる。
やむなく途中からラクダに乗った。料金は日本円で2,200円。ラクダに乗るのは初めてだが、乗馬体験はある、ラクダの体の動きに合わせて揺られていると、人馬一体というか二人三脚というか心強く、いい気分だ。
「鹿」が春日大社の神使であるように、「ラクダ」はシナイ山の神使に思われた。うれしくなって見上げれば、空いっぱいに天の川が輝いて流れている。満天の星。あれほど明るくキラキラした華麗な星空を見たことはない。「ありがとうありがとう」と念仏のように感謝のことばが口をついて出てくる。

とつぜん、「おりて、歩いて」という声がした。「ここから先はラクダといえど登ることはできません」。山頂が近いにちがいない。
気持が高揚し、えいやッと気合いをかけ、ひらりとラクダの背から飛び降りた。わたしを見ていたガイドによると、ラクダが膝を折ってくれたので、ズリ落ちるように地に足をつけることができたという。

神よ、どうかこの先、自分の足で登らせたまえ。一歩ずつ、一段ずつ気をつけて進んだ。闇の中、登る人々のさまざまな国の言葉とザザザザと足を引きずる靴の音だけが聞こえてくる。
「ここだ。ここです」
と日本人ガイドの声が響いた。頂上に着いたらしいが、暗くてあたりの景色はまったくわからない。疲労と興奮とで心臓がバクバクいっている。そばの大きな岩に寄りかかって、じっと夜明けを待った。(続)

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ねんど博士 中川 織江

北海道出身。大学で彫塑を学び、大学院で造形心理学、 京都大学霊長類研究所でチンパンジーの粘土遊びを研究し、博士課程後期修了。
文学博士

職歴は、芹沢銈介(人間国宝)染色工房、デザイン会社勤務を経て、複数の専門学校・大学・大学院で講師、客員教授として幼児造形や心理学を担当。また、10年以上、全国教育美術展の全国審査員をつとめる。同時に、粘土遊びの魅力と大切さを専門誌に連載。

著書に、一般向けの『粘土遊びの心理学』、専門家向け『粘土造形の心理学的・行動学的研究』がある。ともに風間書房から出版。
現在、幼児の造形作品集の出版をめざして準備中。