ねんどうな人たち。インタビュー

粘土は、患者との壁をなくす、いい介在役

中山 奈保子 さん

1998年作業療法士免許取得後、宮城・福島県内の医療施設(主に身体障害・老年期障害)に勤務。2011年東日本大震災で被災したことを期に、災害を乗り越える親子の暮らしを記録・発信する団体「三陸こざかなネット」を発足し被災後の日常や幼くして被災した子どもによる「災害の伝承」をテーマに執筆・講演活動を行う。現職は作業療法士養成校専任教員。

医師の指示のもと、障害のある人に工作などの多様な活動を通じて諸機能の回復や開発を促す支援を行う、作業療法士。現在は、作業療法士養成校の専任教員を務める中山奈保子さんは、東日本大震災の被災者となったことで、「“障害”も“災害”も同じようなもの」として、いかに人の思いを理解することが難しく、また大切なことであるかを身をもって知ったと言います。そんな中山さんの経歴や、作業療法士として障害を持つ人とのコミュニケーションに役立つ粘土の魅力について伺いました。

吹奏楽からリハビリの世界へ

――中山さんが作業療法士になった動機を教えてください。

中山 仙台市の出身で、高校時代はフルートを担当した吹奏楽部に熱中しました。けれども、3年生になって進路を決めなければならなくなり、親からは「手に職をつけろ」と。そこで、音楽ばっかりやっていた自分にも入学できそうで、資格が取れ、学費が安いところを探すと、国立仙台病院附属リハビリテーション学院という学校が見つかったんです。理学療法士科と作業療法士科の2つがあり、倍率が低い作業療法士科に入りました。そんな経緯で、何か高尚な動機があったわけではありません。

――実際に勉強してみて、いかがでしたか?

中山 授業の3分の2ぐらいは、解剖学や生理学、臨床医学といった科目で、3分の1は革細工や木工、機織り、金属を使っての工作といった実習でした。解剖学も実習がありましたが、不器用な私には全く向いていなくて、1年生の時は4回ぐらい「もうやめたい!」って思っていました。周りは作業療法士になるという志を持った優秀な学生ばかりでしたし。そんな私を担任の先生がうまくなだめて引っ張ってくれ、何とか続けることができたと思います。

祖父の最期の言葉に衝撃を受ける

――そんな中山さんが作業療法士になったどころか、養成校の教員にまでなった最初の転機とは?

中山 2年生の1月頃のことです。家には、その10ほど前から寝たきりだった祖父がいて、その頃に息を引き取りました。その最期、祖父は母に「もう天井ばかり見るのは疲れた」と言ったと聞かされたんです。衝撃的でした。10年間、天井を見るだけの毎日だったんだ、と。学校の実習では、患者さんにやる気を出してもらうために楽しめるような作業をしてもらうことを学んでいたわけですが、祖父に「今日も楽しかった」と思ってもらえるような日が1日でもあったら、と思うと、胸が締め付けられるような思いがしたんです。そこから真面目に勉強するようになりましたね。

――卒業後はどういったところで仕事に就いたのですか? また後年、養成校の教員になられた経緯とは?

中山 とはいえ成績は芳しくなく就職活動に苦労しましたが、何とか小さな総合病院に採用してもらい、患者さんへの対応や、いろいろなところに出掛けての作業療法に携わりました。作業療法士の活動をしていく中で、その機能訓練はその患者さんにとって何の意味があるのか、と疑問に感じる光景をいくつも見てきたのです。そんな中、患者さんの主体性を尊重し、内発的動機付けに基づいた作業療法を行うべきといった理論を日本に持ち込んだ先生の存在を知りました。これだ!と感じて、その先生の講演やセミナーが日本のどこで行われても全部聞きに行ったのです。そうしていくうちに、先生から作業療法士養成校の教員になることを勧められたという経緯です。

患者の人生にどんな意味があるのかを考える

――改めて、作業療法とは何かについてお教えください。

中山 作業とは、服を着替えたり、顔を洗ったりという日常生活で行うあらゆる行為のことを言います。作業療法とは、病気やけがなどでこうした作業が思うようにできなくなった利用者さんが生きがいを感じられるよう、基本動作能力や応用動作能力、社会適応能力の回復を図る“心と体のリハビリテーション”と言えます。

――では、粘土について伺います。作業療法に粘土も使うと聞きましたが、粘土を用いる作業療法にはどんな効用があるのでしょうか?

中山 触った時にひやっと感じたり、指がのめり込むといった感触をまず、得ることができますね。一定の厚さに潰そうとする時、もっと力を入れなければならない、そのためにはもっと関節を曲げなければならない、といった感覚を呼び覚ましたり、筋肉の緊張をコントロールすることができます。指先で丸めることで巧緻性を養うこともできます。また、「協調性」と呼んでいるのですが、例えば粘土をうどんのように細長く伸ばすときは、両手をすり合わせながら伸ばしたりしますね。この時、両手をバランスよく動かさないと一定の太さにすることができません。そんな協調性を養うことにも向いています。あるいは、竹串で一か所を刺し続けるといった目と手の協調性の訓練も考えられますね。さらに、カラフルな粘土には「自分は色を選べるんだ」という世界を広げる機能もあると思います。逆に、色がありすぎるとどの色にしたらいいか悩んだり、手が汚れて嫌だと思われたり、食べてしまったり、という患者さんもいます。そのように人それぞれなので、粘土がその患者さんに相応しいものかどうかをしっかり判断することが大事です。その上で、最も大切なのは、その作業がその方の生活や人生にどのような意味やきっかけを与えるのかをよく考えること。粘土の場合は、作品を人に見てもらって褒めてもらったり、人にプレゼントして喜ばれるといったことが張り合いになるといった意義が考えられますね。

震災後の日常を記録する活動

――なるほど。粘土の性質には様々な可能性があるのですね。ところで、中山さんは東日本大震災の被災者と伺いました。そこからの活動の概略をお教えください。

中山 当時、結婚し5歳と2歳前の2人の子供がいて、夫の実家のある石巻で暮らしていました。その日は作業療法のパートが休みで、子供たちと家にいたのです。家は港から数百メートルのところにあり、津波に襲われましたが、義父が頑強に建てた家で流されずに済みました。2階に逃げていましたが、水はすれすれのところで止まり、私たちは床の上で水が引くまで過ごすことができました。私はその時にスマートフォンで写真を撮り、あたりに落ちていた折り紙にメモをして記録を始めたのです。『クライマーズハイ』という映画で、新聞記者の主人公が日航機墜落現場に行って何かにメモをするワンシーンが思い浮かんだからです。

後日、これをブログにしました。記録を残すことで、人に助けてもらったり、頑張ったことを子供たちに忘れてほしくなかったからです。これを編集の仕事をしている小学校時代の友人に見つけてもらい、そこから「三陸こざかなネット」という活動に発展しました。被災した親子が震災後の日常をありのままに語り合い、記録する活動です。

しかし、6年経ったところで、成長した娘が作文に「震災は忘れてしまいたい悲しいこと」と書いたことを知って、ものすごく凹みました。私がしてきたことは、娘の心の傷に塩を塗り込むようなことだったのか、と。そこからもう活動できなくなったとともに、自分のしてきたことが意味のあることなのか、人の役に立ったことなのかを検証しようと、大学院に進学して研究することにしたんです。

被災経験で、自らの“思い上がり”を自覚

――研究結果はどういうものだったのですか?

中山 忘れてはいけないと伝承することで、悲しい出来事を思い出して心の傷が広がる子どももいるけれど、一方で、「伝えたい」という気持ちが芽生える子もいることを改めて確認しました。娘の作文は、被災者としての当事者意識が芽生えた瞬間だったと解釈できますが、さらに研究する必要があるといったところです。

――被災経験は、作業療法士としてどういった影響があったと思われますか?

中山 自分が被災者となって、被災者の気持ちがわかったような記事などを目にするたびに違和感を覚えるようになりました。そうしていくうちに、それまで脳卒中に罹ったこともないのに脳溢血で麻痺となった患者さんに接し、どうしたいかを理解したと勘違いしていたことを自覚したのです。作業療法の理論を学び、実習をしただけの自分が当事者について理解したなどは思い上がりも甚だしい、と。患者さんには、被災者同様、言葉にならない思いがたくさんあるのだと思います。それは本人しかわからないこと。あえて本当の思いを秘密にしておくことで、ご自身を保っている方も少なくないはずです。そういう厳然たる事実を踏まえて、患者さんが自らの人生を自らの意思で切り拓いていけることを謙虚に手助けすることが大事ですよと、学生に話すようにしています。

――そんな作業療法における粘土は、いい介在役になれているのでしょうか?

中山 なれていると思いますよ! 患者さんと作業療法士が同じ時に「冷たいね!」「柔らかいね!」と同じ体験をし、その瞬間は壁がなくなるわけですから。粘土細工をしている時間は、集中して取り組むことにより、心身に生じた何らかの不具合を軽減する機会になるかもしれませんし、普段はあまり得られない感触に没頭することで、今向き合っていることや向き合わなければならないことから、ちょっと距離を置く時間ができるかもしれません。

――良かったです。ありがとうございました!

中山 奈保子 Naoko Nakayama

宮城県仙台市出身。
作業療法士(教育学修士)。1998年作業療法士免許取得後、宮城・福島県内の医療施設(主に身体障害・老年期障害)に勤務。2011年東日本大震災で被災したことを期に、災害を乗り越える親子の暮らしを記録・発信する団体「三陸こざかなネット」を発足し被災後の日常や幼くして被災した子どもによる「災害の伝承」をテーマに執筆・講演活動を行う。現職は作業療法士養成校専任教員。